定年退職祝いのプレゼントを紹介しています。定年退職される方のお名前やメッセージを彫刻した世界に一つのオリジナルギフトが人気です。文字を彫刻することで、いつまでも色あせることがありません。また、定年退職祝いのエピソードを紹介しています。

義父の何よりも嬉しいお祝いの夜

昨年、

主人の父が長年勤めた会社を退職しました。

有名な某大手食品会社の役員を務めた立派な義父です。そんな業界ではちょっと大物の義父に、嫁の私は恐縮するばかりでした。

しかし義父はその地位を自慢したり、えらぶるような横暴な性格ではありませんでした。嫁の私にもさりげない心遣いと思いやりでいつもそっと見守ってくれる、そんな優しい義父でした。

実家から離れて暮らす長男一家の私たちは、そんな義父のために退職祝いを贈ることにしました。普段は伝えられない感謝をこの機会に伝えられたらいいな、と思い…。

しかし、相手は大手企業のやり手サラリーマン。お金もあり、家には何でも揃っています。食品会社勤めのため、高級な食べ物も普段から食しているので、父の日や誕生日など、何をあげてもしっくりきません。

さあ、どうしよう…。嫁は本当に悩みました。そんな時、札幌テレビ塔で夜の10時以降、毎日1組限定で展望台を貸し切ることができるという情報を得ました。

地方局の情報番組だったのですが、そこで取材されていたのも、ある家族のお父さんの退職祝いだったのです。

涙を流して喜ぶテレビの中のお父さんの映像を見て、「これだ!」と私は思いました。テレビでよく見る、札幌の夜景を我が家族だけで独占して退職祝いのパーティーをする。

きっといい記念になるに違いない!義母も主人もこの企画に大喜びです。義父に内緒で予約をとり、パーティーとプレゼントの準備をしました。

プレゼントは「お誕生日新聞」。「お誕生日新聞」というのは、自分の記念日を指定すると、その日の新聞の1面と2面をコピーしてくれる、というサービスです。

義母に協力してもらい、義父の生まれた日や就職した日、結婚記念日や主人の生まれた日などを教えてもらい、その日の新聞をコピーしてもらいました。

その新聞には義両親から聞いていた思い出のある社会的なニュースも載っていて、私たち家族も準備をしながら大いに楽しめました。

自宅ではいつも新聞を読んでいた義父は喜んでくれるでしょうか…。当日、閉館後のテレビ塔に連れてこられた義父は、終始いぶかしげでした。

しかし、突然テレビ塔がライトアップされ、一階の電光掲示板に自分の名前が示されたのを見てものすごく驚いたそうです。

そのまま案内されて展望台に上り、たくさんの家族たちに祝福されながらのパーティーは、「疲れも吹き飛ぶほどうれしかった」と後に語っていました。

ロマンチックな札幌の夜景、自分の記念日の新聞のコピー、そしてこれまで大事にしてきた家族の笑顔。義父にとって、何よりもうれしい退職祝いの夜となったようです。

私たち家族もまた、喜ぶ義父の笑顔を見て幸せな気持ちになったのでした。

形には残らない思い出のプレゼント

母が定年退職した時の思い出です。

母は長らく小学校の教員をやっていたので、子供達からの気持ちのこもった物が何よりも好きでした。

作品展などでも、上手にうまくできている物よりも、荒くても自分らしさがアピールされている様な作品をよく褒めていました。

そんな、母の定年職する際に。子供達が考えて、皆で力を合わせてプレゼントを作る事になりました。

子供達はそれぞれの意見をいろいろと出しましたが、全員が一つとなれる物を作るとなると、ピンとくるアイデアが浮かびませんでした。

何をするのが悩み続けた子供達は、困った末に音楽の先生に相談する事にしました。音楽の先生のアドバイスは、形にとらわれるばかりでなくて、先生の好きな事は何か、何がお気に入りなのかを調べてご覧という話でした。

先生の好きな物、子供、歌、花。そのヒントから、子供達は、皆で合唱をプレゼントする事にしました。

クラスが一つになる。まさに先生の大好きな事です。ただ歌うだけではなくて、歌いながら、一人一人が持てるパネルを作り、歌に合わせて全員でめくりながらストーリー性を持たす事にしました。

歌はバラが咲いた。子供達には少し難しい音程でしたが、音楽の先生も手伝って子供達用にアレンジされて、見事、合唱ソングになりました。

パネルをめくりながら、最後には、全員で一つの大きなバラになるという流れでした。当日プレゼントされた母が感極まった事はいうまでもありません。

今も、たまにふと口ずさんでいる時は、きっと、あの時の思い出を思い出していると思います。

形には残りませんでしたが、何よりの定年退職祝いだったようです。

40年間の感謝を伝える手紙

お父さん40年間お勤めお疲れ様でした。定年退職おねでとうございます。

家族共々嬉しく感謝の気持ちでいっぱいです。家族からの退職祝いとしてリラックスチェアをプレゼントしました。ちょっと腰が悪い父には座り心地を重視して選びました。

そして本を読む事が好きな父へ少しでも負担のかからない疲れないチェアにしました。父は大変気に入り喜んでくれました。

一緒に贈った感謝の気持ちを父に伝える手紙です。

明日からは自由ですね。体をゆっくり休めて体調管理に気をつけてこれからの人生、更に楽しんでください。ほんとどれくらい感謝しても足りないくらい父には感謝しております。

父は、40年間同じ会社で勤務してきました。その間、苦労や悩み色々めげる事もあったかと思います。愚痴ひとつ言わず退職まで頑張り通しました。

朝6時に家をでて夜10時頃帰宅。土日はお休みですが、1週間位の長い休みは、夏休みと正月くらいで風邪や体調不良で休んでいる父を見た記憶もありません。立派でした。

家は駅から離れていて終バスの時刻も早いので、私が学生の頃は帰る時間が遅くなる事もあり深夜0時過ぎになっても文句言わず駅まで迎えに来てくれました。

毎日続く日もあったと思います。父の次の日の会社のことも考えずに迷惑な話ですよね。

私は今、自分が働き始めてそう思い心が痛みます。これからは、私が親孝行する番です。退職祝いとしてチェアをあげましたが、まだまだこれからたくさんの感謝を返していかないといけません。

健康である事が一番ですが、普通の幸せそしてこれからも家族皆で楽しく元気に過ごしていきましょう。

親の定年で悲喜こもごもです

結婚すると、自分の親、そして相手の親、何事も2回行事が訪れます。

定年退職祝いもその一つです。

幸い義母は専業主婦なので、義父だけでOKですが、先日その義父が60歳を迎えました。といってもあと5年働くそうです。

ということで一旦会社を退職し、すぐに出向先で仕事が始まるとのこと。御祝といっても色気がないなあと、気持ちだけ何かプレゼントを贈ろうかと話していたのですが、義母から「お父さんが定年退職しました。御祝楽しみにしています」と連絡がきました。

どうも主人の妹さんが盛大に御祝贈ったようで、私たち夫婦にも催促の連絡をしてきたようです。っていうか、そんなに家計に余裕ないし、ブランドバックとか、旅行とか私たちにはそんな余裕はありません。

主人にも相談したけれど、自分の親がまさかそんなことを言うなんて!と取り合ってくれず、結局主人から直接母に連絡をいれてもらいました。

主人「そんなこと言ってないだってよ?」私「え?いったよ。じゃなきゃこんな相談するわけないじゃん」主人「御祝とかはいいからねって意味らしいよ」私「・・・」なんでしょう、このもやもやとした気持ち。

悔しかった私はへそくりでブランドの財布と洋服をプレゼントしました。自分の両親にもこんな贈り物したことないのに。なんでこんなことしてるのか、とても悲しい気持ちになりました。

自分の両親にも定年退職祝いは豪華にしてあげよう!と心に誓った私です。

主人にもさりげなくアピールしておこうと思います。結婚すると色々な事があります。悲喜こもごもです。そんなことを実感した退職祝いでした。

祖父の生き方を尊敬しています

私が中学生の頃、祖父が70歳で定年退職して、退職祝いをしました。

祖父は16歳から同じところで働いていました。酪農をしている人が良い経営をできるように管理をする仕事で、経理を行っていた祖父は、キャリアも長く最終的には専務の地位に就いて活躍しました。

祖父が外で働き出したのは、農家をしていた家が貧しかったからです。7人の兄弟の長男だった祖父は、家の発展のためにと思い、酪農で働き、家では農業を手伝いと勤勉に働き続けてきました。

そんな祖父のおかげで、それまで貧乏だった我が家の家計が黒字化して、家を建てて、祖父の子供である父と伯母は大学教育を受けさせてもらい、発展していきました。

祖父は真面目な性格で、本来は60歳で定年でしたが、頼みこまれて70歳まで勤めあげました。

退職祝いには、父、母、私、弟二人、祖母、伯母といった家族と、祖父の兄弟6人とその配偶者が参加するというものでした。

大きな部屋を貸し切り、みんなで和食を食べながら、祖父をねぎらう話をしていたことを覚えています。

私たちは兄弟は、当時中学生、小学生だったので、大人達の話に入れず、退職ということの重みは、しっかりと感じられていませんでした。

でもみんなに囲まれた祖父の笑顔が、とてもきれいだなと感じました。それから20年近く生きて、祖父は数年前に亡くなりましたが、退職した後も家の為にずっと働き通しの人生でした。

身を粉にして人のために尽くすという生き方で、家族、職場、そして地域の人に貢献してくれました。そんな祖父の背中を見ながら育った私は、祖父を尊敬しています。

この日のお祝いができた幸せ

昨年、

義理の父が60歳で定年を迎えて退職をしましたので、退職祝いを家族で行いました。


還暦ということで、還暦のお祝いも兼ねて、義両親、旦那、私、娘、義妹、義妹旦那、義妹息子二人の合計9人で中華料理屋さんに集まりました。

私たち家族と義妹で、中華料理のコースをごちそうして、退職祝いのプレゼントを渡しました。

プレゼントは迷ったあげく、バーバリーの財布と名前を彫刻した湯呑みにしました。

義父はとても喜んでくれ、これからの人生は健康に気をつけて、息子や娘達の世話にならないように気をつけていくと誓っていました。

お料理やプレゼントも喜んでくれましたが、何より1歳のうちの娘、6歳と4歳の義妹の息子といった3人の孫に囲まれているのが幸せそうでした。

義父には日頃から、とてもお世話になっています。娘のベビー用品をもらったり、車で色々なところに連れて行ってくれたりと、私は父親を亡くしているので、自分の父親を思い出させてくれるような心強い存在です。

高校を卒業してすぐに就職した義父は、一度転職はしていますが、40年以上家族のために働いてきました。

旦那と義妹を大学に行かせ、裕福とまではいかなかったようですが、一戸建ても購入して、幸せな家庭を築いてきました。

今自分が家庭を持って思うことは、長い間家族が暮らしていけるように、安定して仕事をしていくことは本当に大変なことです。

仕事上のストレスなども感じながら、でも真面目にこつこつと働いて、ここまで健康にやってきてくれたことをとても感謝しています。

義父の退職祝いをして家族が集まり、みんなでこの日のお祝いができた幸せを、しみじみと感じました。

親というものは本当にありがたい

教員だった父が退職し、生徒からもらった寄せ書きと大きな花束をもって帰宅してきました。
結婚し、別々に住んでいる私はその姿を見ることはできませんでしたが、母から父の写メールが送られてきました。ニコニコうれしそうな父の顔。記憶の中の父はいつも学校へ行っていたし、連れて行かれるのも土日の部活。父が指導している横で妹と二人運動場をちょこちょこしていたのを思い出し、感慨深いものがありました。そして、一番頭を悩ませたのは退職祝い。父の少し前に派遣で長く務めてきた銀行を退職した母と合わせて、旅行をプレゼントすることに。場所や時期を妹と検討するも、なかなか決まらず、最終的には両親の希望を聞き北海道旅行をプレゼントすることになりました。お財布的には多少きつい金額でしたが、今まで散々親不孝してきた反省と、感謝の気持ちを込めて。主人も快諾してくれて、ちょっぴり豪華な旅をプレゼントすることができました。旅行中、マメに連絡をくれる母からのメールや電話も一切なく、少し心配しましたが、迎えに行った先の空港で手を振る二人の表情を見て、ほっと一安心。決して若くない二人が、たくさんの荷物を持ってこちらへ向かって大きく手を振っています。満面の笑顔で。そんなに買ったの!!??というぐらい沢山のお土産を持って、ニコニコの二人。帰宅してお土産話に花が咲き、何より、カメラなんて持ったことのない父が、母のデジカメを取り出し、自分が撮影した写真を私たちに見せながらいろんなエピソードを話してくれたのには姉妹そろって思わず顔を見合わせてしまいました。こんなに喜んでくれるなら、ちょっと奮発した甲斐があったというものです。すきっぱなのであまり口をあけて笑わない父が大きな口をあけてニコニコニコニコ。「本当に楽しかった。ありがとう」その言葉になんだか涙が出そうになりましたがぐっとこらえ、バイバイしました。お土産はほとんど孫や私たち家族のもの。自分たちには小さなお守りと記念の置物を一つ。親というものは本当にありがたい。長いこと私たち家族を支えてくれた父が大きく振る手を眺めながらひしひしとそのありがたさを感じた1日でした。両親への感謝の気持ちを改めて感じたよい機会でした。

教師を定年する母親に感謝です

昨年、母が60歳になり、教師を定年退職することとなりました。

その退職祝いとして、食事会を開きました。私は三人兄弟なのですが、それぞれに家庭を持って、子どもも忙しく、そろって集まる機会はなかなか作れませんでした。

みんなで集まり、孫たちと食事できたことで、母はとても嬉しそうにしていました。

食事会の終わりに、バッグをプレゼントしました。ブランド物ではないのですが、質の良い物で、それまで頑張ってきた母に、プレゼントなどあまりしてこなかったので、喜んでもらえて良かったです。

母は小学校の教師として、大学卒業から、定年まで働いていました。私たちが小さい頃から、共働きだったので、家に帰っても母はおらず、祖母が母の代わりをしてくれました。

風邪をひいた時、授業参観に来れない時など、子どもながらに寂しい思いはしましたが、いつも母がバリバリと働いている姿をかっこ良いなと思いながら育ってきました。

私が20歳になった頃、突然父が急死しました。私の悲しみも大きなものだったのですが、母はそれ以上だったと思います。ですが仕事にはすぐに復帰して、それに打ち込んで、私たち三人に大学を卒業させてくれました。

母の苦労はとても大きなものだったと思いますが、それでもいつでも頑張ってくれた母親に感謝しています。今では、野菜をうえたり、ボランティアをしたり、孫の世話をしたりと、第二の人生を母らしく歩き始めました。たまにお出かけする時には、退職祝いとして渡したバッグを持って出かけてくれています。

祖父の晴れ晴れとした顔

祖父が75歳の頃、16歳から60年働いていた会社を退職することとなり、祖父の兄弟7人とそれぞれの配偶者、私たち家族で集まり、退職祝いをしました。

私は中学年生で、祖父の兄弟たちに囲まれて、大勢の中に混じって、歌を歌ったり、お酒を飲んだりしているのを見ていました。

祖父は7人兄弟の長男で、うちは農家だったのですが、これからの時代は農家よりも勤めに出た方がもうかるということで、酪農に就職しました。

祖父の父は農家を手伝ってほしく、初めは安月給だった祖父に対して、ぐちぐちと文句を言っていたようです。

そして第二次世界大戦があり、祖父は出征しました。事務をしていた経験から、軍隊でも経理などを担当していたようです。

戦争から戻り、祖母と結婚して、再び勤めを始めました。自分の利益より酪農全体の利益をと考えて動いた祖父は、会社でも一目置かれて大事にされていました。

会社は大きくなり、それまで貧しかった我が家でしたが、私の父の代からはしっかりと教育をつけることもでき、家も建て直したりと、発展していきました。

私たち三人の兄弟も、それぞれ好きなように学ばせてもらい、お金の心配をすることなく、大人になることができました。

それは母や父のおかげでもあるのですが、祖父が頑張って、その基礎を築いてくれたおかげです。

ばりばりと夜遅くまで働いていた祖父でしたが、60歳を過ぎて一線を退き、アドバイサーとして75歳まで勤めあげました。

家族の為に、そして会社の発展のために、まさに尽くした祖父の生き方は素晴らしかったと、今でも思います。

祖父は数年前に亡くなりましたが、

あの退職祝いの日に、みんなにお祝いをされて、やりきったという晴れ晴れとした祖父の顔は忘れられません。

定年は40年の重みを持ったお祝い

私が定年退職した時、会社の多くの同僚や後輩達から、退職祝いを頂きました。

私の会社では、最後に在籍していた部門の後輩が発起人となり、かつて所属していた部署など、関係の深かった部署に、退職者に対する感謝の集いへの参加と、祝い金を募る案内を送付し、賛同者を募るのが恒例になっていました。

所属部署が主催の感謝の集いで、賛同者から送られてきた祝い金で、退職者が希望する退職祝いの目録として披露され贈られます。

私の場合にも、驚くほど多くの賛同者の方から、退職のお祝いを頂戴しました。実際は、祝い金としていただき、記念になる使い方をさせてもらいました。

記念の品としてデジタル一眼レフカメラの入門機を買わせて頂き、またそのカメラを持って、女房と一緒に2泊3日の旅行に行かせてもらいました。

また、子供達からはお祝いとして食事に連れて行ってもらいました。産まれて半年の初孫も一緒に、楽しい一時を過ごすことができ、幸せそうな子供達の姿を見るのも何よりの贈り物でした。

子供達は、その席上で、私達が会社のメンバーから頂いた祝い金で出かける旅行で宿泊するホテルの食事券までプレゼントしてくれました。

定年退職のお祝いは、今までの人生で最も晴れがましく、また高価なお祝いでした。私がお礼の気持ちを、祝ってくれた会社の後輩達や子供達に伝えると、異口同音に40年近くの頑張りに対するご褒美としては当然ですと言ってくれます。

言われてみれば、

定年退職祝いは他のお祝い以上に、40年の重みを持ったお祝いなのだとありがたく受け止めさせて頂きました。